5歳の頃から、私は、よく目を閉じていた。
今の大人が聞けば「瞑想をしていたの?」と思うかもしれない。
でも、そんな立派なものではない。
私はただ、現実とは違うどこかに行きたかったのだ。
畳の上に横になり、畳の目を見つめる。
細い線と線の間。
そこには小さな隙間がある。
もちろん、今考えれば、その中にいるのは小さな虫だったのかもしれない。
でも、5歳の私には違って見えた。
もしかしたら、この隙間の向こうには小人が住んでいるんじゃないか。
もし会えたら、どんな話をしてくれるんだろう。
そんなことを考えていた。
目を閉じると、暗闇の中に
光の残像のようなものが浮かぶことがある。
その小さな光。
遠くに見えるような光。
そこを必死に見ようとしていた。
その先に、今いる世界とは違う場所があるような気がしていたからだ。
子どもだった私は、そこに何かを求めていた。
別の世界。
別の場所。
今とは違う何か。
それが何だったのか、5歳の自分に聞いてみたい。
でも、ひとつだけ解っていたことがある。
私はその頃から、目に見えるものだけが、
この世界だとは思っていなかった。
それは、幼いながらも「当然の解釈」だ。
その後、私は万華鏡に夢中になった。
中に入っているのは、
小さなガラスのかけらや色紙の切れ端。
ただの小さな破片なのに、回すたびに形が変わり、違う世界が現れる。
私はその中に人や物語を見ていた。
この形は誰かに似ている。
この色は誰かの気持ちみたいだ。
この二つが近づいたら、何かが起きる。
小さなかけらの動きから、勝手に物語を作っていたのだ。
今思えば、それは後に私が人を見る時と同じだった。
人は、外側だけを見ると簡単に分類される。
仕事。
見た目。
立場。
世間から貼られた名前。
そして、ほとんどの場合、その「見え方、見せ方」を信じてしまう人が多い。
でも、その人の本当の姿は、そこだけでは分からない。
私はずっと、その奥にあるものを見たかったのだと思う。
私が書いた「瑠美」という物語もそうだった。
周囲から見れば、いくつもの偏見を向けられる半生だったかもしれない。
でも、私が見ていたのは、
その人についたレッテルや印象でついたあだ名ではない。
優しすぎるところ。
人を疑えないところ。
不器用でも自分なりに生きようとしているところ。
一人の人間としての瑠美だった。
「さっちゃんがきた!」というオリジナル小説も同じだ。
最後は悲しい結末だ。
しかし、そこに描きたかったのは、不幸な人の話ではない。
母を慕う気持ち。
自分なりに一生懸命だった姿。
その人が確かに生きていた時間だった。
人は、表から見える一部分だけでは分からない。
万華鏡のように、少し角度を変えるだけで、違う色や形が見えてくる。
5歳の私は、畳の隙間や暗闇の光の向こうに、別の世界を探していた。
今の私は、人の中に隠れている物語を探している。
考えてみれば、私は、自分の人生のすべてが、
ずっと同じことをしているのかもしれない。
「きんもくせいが香る頃」第一巻の内容記事
https://syowa-sonata2.blogspot.com/2026/06/blog-post_982.html

