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| 『きんもくせいが香る頃 第三巻①」ザリガニとりと賭場 |
ジャンルによって、必要なものは少しずつ違うかもしれないけど……。
説明文や論文なら、正確さ、論理的にまとめられた、
無駄のない文章が大事なこともある。
しかし、童話は別として、小説などストーリーを
伝える文章で必要なのは、それだけじゃない。
私が物語を書く時に、『絶対的基本』にしていること__。
つまり、私が書く時に、なにを一番大切にしているか。
それは、
温度、息づかい、見えない涙、様々な速度の鼓動、空気、匂い。
そういうものだ。
それらが、すべての物語を動かして、
進行させていくといっても過言じゃないとさえ考えている。
泣いていると書かなくても、その人が泣いているのがわかる文章に、
難しい比喩はいらない。
悲しいと書かなくても、悲しさが伝わって浮かんだ情景、
見た記憶から涙は書ける。
寒いとか暑いとか、そんなものをしつこく書かなくても、
その場所の空気が肌に触れるように感じる。
雨の匂いや、古い家の匂い、夕方の道の空気まで、
読んでいる人の中に浮かんでくる。
高尚な文章じゃなくていい、難しい文章じゃなくてもいい。
難しい漢字や難しい言い回しを使えば、
小説がそれらしく整っているようにみえるのは、
棚にきちんと並んだ本を眺めるのと同じで、すべての背表紙は覚えられない。
そこには、温度がない。息づかいもない。
様々なテクニックはあると思うが、少なくとも私が思う
「必要な最大値」は、「浮かぶ・感じる文章」だ。
まるで、そこに自分がいるように感じられる文章だ。
最近は、難しい漢字の造語を使ったり、昔の文豪のような言い回しを、
参考にしているのではないかと思える文章も、増えている気がする。
しかし、残念ながら、大概の場合、
伝わってこない。
まあ、人様の文章をあーだこーだ言える身分ではないが、
私が物語を書く時、
私個人の決まり事として、
内容の温度が伝わる言葉で書いているつもりだ。
子供が主役なら、子供目線の文章。
その場合、当然、少し幼い語り口調になっている。
太宰には太宰の文章がある。武者小路には武者小路の文章がある。
影響を受けて学ぶことは必要で、私は中学の時には夏目漱石を読み漁り、高校以後は、村上春樹や向田邦子、山崎豊子、林真理子、よしもとばなな等もよく読んだ。
しかし、大人になってからは倉本聰さんの言葉選びが、とても好きだ。作品は全部好きで、「北の国から」はもちろんのこと、「風のガーデン」も、とても好き。
しかし、それを真似したところで、私自身の文章になるわけじゃない。
読み漁って影響をうけて、多少似てる視点が入ることはあるかもしれないし、多分、本当に心底好きな作家は、なぜ好きなのかと聞かれれば、視線を向ける先、視点が好きなんだろうと思う。
(「倉本さんは自然を描く、私も自然が好きだから」という陳腐な意味ではありません)
そして、その視点が好きで、
そういう作品を描きたいという気持ちは、よいと思っている。
うん。それはそれでよいと思う……。
真似じゃなくて血肉になっていくから。
私が思う、文体そのものの「巧み」の判定とは__。
特に小説では、ひとつしかない。
読んでいて、文字で映像が動くように
文字を追うごとに「目の奥から、脳と心に入ってくる文章」かどうか。
映画を見るように浮かぶその場面。感じる温度、匂い、鼓動。
そこに尽きると思っている。
難しい言葉を使っていなくてもいい。
少々幼稚に見えてもいい。
読んだ人がその温度の中に入っていける、
そんな文章を目指したいといつも考えている。
文章は、書いた人が悦に浸るためにあるんじゃない。
少なくとも、見せない日記以外は……。
小説は、読む人のところまで届かなければ意味がない。
私はこれからも、できるだけ難しい言葉を使わず、まるで、すぐ隣で話を聴いているように、すーっと入ってくる文章を書きたいと考えている。
人の温度が伝わる文章。
息づかいが聞こえる文章。
見えない涙が見える文章。
それが、私が小説を書くときに大切にしていることであり、いつもそうありたいと、これからも意識して、目指し続けるものだ。


