子どもが手を振る絵さえ止めるAI社会
昨夜は、AIで作った画像を、動画生成AIで動かそうと試みた。
その絵は、若い人物がこちらへ駆け寄り、大きく手を振って別れを告げる場面である。「さようなら」「元気でね」「また会いに行くからね」。そんな声が聞こえてくるような、ごく普通の情景の絵だ。昭和の映画なら、駅のホームでも、田舎道でも、学校の前でも、どこにでも、いくらでも、描かれてきた場面である。
ところが、動画生成AIはこれを拒んだ。
理由は、人物が未成年に見える可能性があるからだという。
写真風、16:9。
こちらへ駆け寄る。
片手を高く上げて大きく手を振る。
明るい表情。
服装と雰囲気は参照画像に合わせる。
アニメ風にしない。
子どもが走る、手を振る、叫ぶ。そんな人間らしい動作まで、機械は危険の記号として処理する。
見た目が未成年の子供だからNGだと……。
これは単なる技術的エラーではない。
未来の表現を誰が決めるのか、という問題である。
やがて人々は、規制に引っかからないように言葉を削り、感情を薄め、人物を、なるべく大人に寄せて描く。子供が登場しないストーリーだ。
そうしているうちに、作り手の頭の中まで、AIの規制に合わせて書き換えられていく。
日本の映画や物語では、子どもは泣くし、叫ぶし、手を振る。それは不健全さではなく、人間として生きている証拠だった。
一方で、米国的な基準では、子どもの描写に極端に過敏である反面、大人の性的な演出には寛容な面がある。ここには日米の道徳観、表現史、社会の感覚の違いもあるのだろう。
しかし、行き過ぎている、妄想が著しい。子供を主役にした映画も、家族が登場する映画も、いずれつくれなくなるのか?
子供をまもるため?
いや、これは、子供がいなくてもなりつ世界に変貌していくのでは?
ストーリーには、子供が登場しない時代へ
AI社会がこのまま進めば、危険なものだけでなく、健全なものまで消されていく。子どもが無邪気に手を振る絵を作れない未来は、安全な未来ではない。人間の自然な情緒を、機械の雑な判定に明け渡した未来である。ちなみに、これがその画像
※この少年は、日本兵の通訳をしていて、父たちにとてもなついていた。年齢が近かったこともあるかもしれない。この少年(14~5歳)は、「戦争が終わったら日本に行ってみたい。日本を見てみたい。案内してくれるか?家に泊めてくれるか?」と言い、移動で去っていく日本兵たちと戦後の約束をしていた男の子だった。少年は、日本兵が「もうついてくるな」と言ってるのに、「もう少しだけ」と何度もいい、街はずれまでついてきた。そこで大きく手を振って別れを惜しんでいたという。この絵はそのシーン。こんな歴史も日本兵にはあるのです。
子どもを守るための規制が、結果として、健全な子どもの姿そのものを表現の場から消していく。子供の未来を守ることと、人間社会を描いた様々な「ストーリー」と呼ばれるものから、子供を排除していくAI。
描くだけで、おかしなことを疑われる。欧米ペドの異常な浸食が彼らをナーバスにさせているのか、それとも別の意図を持った近未来の社会構造の仕組みをかえていくための、前段階のルールなのか。
家族が消える未来はもうそこまで来てる。走る、笑う、手を振る、泣く、別れる、喜ぶ――そういう普通の社会の情景まで避けろというAI。
カプセルベイビーや、「わたしを離さないで」という小説にでてくるような未来がくるとすれば(もうきている)、今回のAIの規制は、その第一歩になっていくだろう。それは「保護」ではなく、子どもを、日常や物語から隔離・管理してしまうことに近い。
昔の映画や小説には、子どもが元気に存在感を表していた。
そこに、人間社会の営みの深みがあった。私たちは、それを「人間社会のうんぬん……」なんてあらためて考えることもなく存在していた。
そして、泣く子、笑う子、わがままな子、健気な子、別れを惜しむ子、家族を待つ子。それは、物語の情緒や倫理を作っていた。
子どもを大事にするというのは、子どもを見えなくすることではなく、健全な姿を健全なまま描けるようにすることではないのか。
欧米のペド問題の異様さを、日本人にまで過剰な規制の渦に巻き込んでいる。これは、文化と歴史の破壊にもつながっていくし、何より、「子供」という尊い存在……その存在感が、真の意味で消されていく社会に向かっている。


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